東日本大震災から14年、あの日を振り返る

こんにちは。アティックワークスの北川です。
東日本大震災の発生から、2025年の今年で14年が経ちました。時間の経過とともに人々の記憶が薄れつつある中、震災がもたらした悲劇とそこから得た教訓を忘れてはなりません。私の今の家づくりの原点もここにあります。今回は震災当時の状況やその後の復興の歩み、自分が被災地を訪れた事などを振り返りたいと思います。
この記事の目次
東日本大震災
東日本大震災は、2011年(平成23年)3月11日午後2時46分に日本の東北地方太平洋沖を震源として発生した、マグニチュード9.0という日本観測史上最大の巨大地震と、それに伴って引き起こされた大津波や原子力事故を含む一連の災害の総称です。
災害の概要
地震の規模11
マグニチュード9.0(日本国内観測史上最大規模)
震源地は三陸沖(宮城県沖)で、岩手県、宮城県、福島県を中心に広範囲に激しい揺れを観測しました。
津波被害
地震直後に最大40mを超える巨大津波が東北地方の太平洋沿岸部を襲い、特に岩手県、宮城県、福島県の沿岸地域で壊滅的な被害を与えました。津波は遠く離れた地域や海外まで到達し、広域的な被害をもたらしました。
被害状況
・死者・行方不明者:約18,500人
・住宅の全半壊:約40万棟以上
・避難者:約47万人以上(ピーク時)
福島第一原発事故
「出典:東京電力ホールディングス」
事故の発生
2011年3月11日の東日本大震災(M9.0)による巨大津波で、東京電力の福島第一原子力発電所が被災。
津波によって原子炉の冷却設備が水没し、冷却機能が完全に喪失。
事故の経過
冷却不能により炉心の温度が異常に上昇し、1~3号機で燃料が溶融(メルトダウン)。
炉内で発生した水素により、原子炉建屋が爆発・損壊。大量の放射性物質が外部へ放出された。
国際原子力事象評価尺度(INES)で最も深刻な「レベル7」に分類。
影響と被害
約16万人が避難を余儀なくされ、地域社会が分断される深刻な被害が発生。
周辺地域が放射能汚染により、広範囲で立ち入り禁止・居住制限区域となった。
農林水産業、観光業など地域経済に甚大な被害を与え、風評被害も長期にわたって続いた。
対策と現状
廃炉作業が進められ、溶け落ちた核燃料(デブリ)の取り出しなど難航する課題が多数残っている。
放射能除染と住民の帰還促進が進められ、一部地域では居住制限が解除されているが、帰還困難区域は依然存在する。
教訓と課題
原子力の安全性に対する信頼が揺らぎ、日本および世界のエネルギー政策に大きな影響を与えた。
事故対応・防災体制・情報公開など、多くの教訓を残し、現在も原子力政策や防災対策に影響を与え続けている。
福島第一原発事故は、人類史上チェルノブイリ原発事故に次ぐ深刻な原子力災害として記録されています。
2013年、被災地への訪問
東日本大震災が発生した2011年当時、私は大阪の堺にある設計事務所に勤めていました。その日は老人ホームで内部の測量業務を行っていました。大阪でも地震の影響はわずかにあったようですが、私が仕事をしていた現場では揺れを感じることもなく、全く気づきませんでした。
帰り道、車内のラジオで初めて地震があったことを知りました。津波により甚大な被害が出ていることも報じられていましたが、その時点では被害の規模がよく分かりませんでした。
帰宅後に見たテレビから映し出された衝撃的な映像は、今でも鮮明に覚えています。画面の中には街が丸ごと水に飲み込まれている光景が映っており、目の前の状況を理解するのにしばらく時間がかかるほどでした。
震災から2年後の2013年、私は設計事務所を退職し、大阪から車で被災地を訪れました。私自身、10歳のときに近くで起きた阪神淡路大震災の記憶はほとんどありませんでした。そのため、大人になって経験した大きな災害は東日本大震災が初めてでした。
自分が建築の仕事に関わっている以上、直接現地を見て、被災の実情を知っておく必要があると感じたのです。
まず向かったのは気仙沼でした。そこには基礎部分だけが残された街並みが広がり、その真ん中に大きなタンカーが打ち上げられたままになっていました。その場所は海岸から離れた内陸部であり、津波の圧倒的な威力を目の当たりにしました。
次に訪れたのは陸前高田でした。向かう途中、津波で3階まで浸水した学校の建物があり、改めて津波の恐ろしさを感じました。陸前高田では、道の駅タピック45の被災跡や「奇跡の一本松」を見学しました。
また、当時、陸前高田には日本を代表する建築家である伊東豊雄氏、乾久美子氏、平田晃久氏、藤本壮介氏によって設計された集会所「みんなの家」がありました。
その場所で地元のおじいさんと役所の方からお話を伺う機会がありました。おじいさんは、「震災のときは気仙沼の火災で空が真っ赤になった。でも救援物資が届いたから大丈夫だった。戦争のときのほうがもっと大変だった」と、穏やかに語ってくれました。
また、役所の方の話によると、当時はまだ街がほぼ更地のままで、土地の所有者を探す作業が非常に困難であるとのことでした。土地の持ち主が陸前高田市外にいる場合も多く、整備には相当の時間がかかっているとのことでした。しかし、その方の言葉から、この街はきっと復興できるという希望を感じることができました。
その後、日本一海水浴場に近い駅として知られた大谷海岸を訪れました。かつて駅だった場所には、ホームだけが残り、震災によって大きく変化した風景が印象的でした。
翌日、私は福島第一原発へ行く予定だったので、福島県内の友人宅から車を走らせました。常磐自動車道を北上すると、広野ICで災害通行止めのため一般道に降ろされました。近くには原発事故対応の拠点になっていた「Jヴィレッジ」があり、防護服姿の作業員を乗せた多くの護送車がそこから原発方面へ向かっていました。
私もそれに続いて車を走らせましたが、道路を走るのは除染作業車、パトカー、護送車ばかりで、一般車両はほとんどありませんでした。2年の時が経ち、街路樹や雑草が生い茂る道路を進むうち、福島第二原発を越え、さらに北上しましたが、富岡町の途中で不安になり引き返しました。目に見えない放射能の恐怖を感じ、「原発は一度事故が起きれば手に負えない」と強く感じました。他の地域の復興は進んでいましたが、この地域だけは時間が止まったままであるかのように感じられました。
※2013年被災地へ訪問にある写真は自分で撮影したもの
経験と体験が私に与えたもの
この東日本大震災から2年後、被災地を実際に訪問した経験は、現在の私自身の家づくりの原点になっています。
震災を実際に目の当たりにし、「地震にも負けない耐震性能」や、「電気が使えない状況でも過ごせる断熱性能」、さらに原発事故を目の当たりにしたことで、エネルギー問題についても深く考えるようになりました。
この訪問で感じたこと、得た教訓を生かし、安全で快適な住まいづくりに取り組んでいきたいと思っています。
東日本大震災が私たちに残した教訓
東日本大震災は、日本だけでなく世界にも大きな影響を与えました。この災害を通じて、防災への意識が大きく変わりました。日常的な備えの重要性、地域社会の結びつき、災害発生時の迅速な情報共有など、私たちは多くの教訓を得ました。
さらに、原発事故によりエネルギー政策や原子力の安全性についても大きな転換点となりました。世界各国が原子力の安全基準の見直しや再生可能エネルギーへの転換を進める契機ともなったのです。
震災の記憶を風化させず、得られた教訓を次世代に伝えていくことが私たちの使命です。14年経った今だからこそ、改めて防災やエネルギー政策への意識を高めるきっかけにしたいものです。
3.11の今日は自分を引き締める為の日でもあります。